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柳河藩

2014年4月2日

 天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州平定に功績のあった立花宗茂に下筑後四郡を宛行います。ただし、三池郡は実弟の高橋統増(のちの立花直次)へ、三潴郡のうち150町は三池鎮実に渡すこととされました。宗茂は柳川城に入城、ここを本拠として、領国の統治を行います。太閤検地後の領国の石高は、13万2200石。しかし、別な項目でも触れたように、慶長5年(1600)に関ヶ原合戦で西軍に属したため、宗茂は改易されます。

 

 宗茂改易後に入封した田中吉政は、筑後一国を領し、宗茂同様やはり柳川を本拠地に領内統治を行います。田中氏は吉政の跡を継いだ忠政が元和6年(1620)没すると無嗣断絶、改易となります。

 

 同年末に旧領主立花宗茂が当地方の領主として返り咲きます。この時、北筑後は有馬氏が支配することになり、久留米藩が成立します(柳河藩の南には三池藩も成立)。柳河藩と久留米藩は矢部川上中流がその境界をなし、このため江戸時代矢部川は「御境川」と呼称されます。両藩は江戸時代を通じて矢部川の利水・治水をめぐって争うことになりますが、その過程で独自の水利慣行を形成していきます。

 

 さて、宗茂が再封後に与えられた柳河藩の石高は、10万9647石余。その内訳は、山門郡86か村、三潴郡のうち12か村、三池郡のうち47か町村、上妻郡のうち16か村、下妻郡のうち8か村です。柳河藩領全体を描いた「御領内絵図」を見ると、西に有明海を抱く低平地が広がり、東は山がちの土地が続く、東西に細長い藩領であったことがわかります。

 

 ところで、文化3年(1806)に三池藩立花氏が陸奥下手渡に転封となると、旧三池藩領15か村は幕府領となりますが、文化13年にはその旧三池藩領は柳河藩預かり地となっています(このうち一部は嘉永4年(1851)下手渡藩に与えられる)。一般に゛柳河藩12万石゛と称されますが、柳河藩の石高(表高)は先に見たように約11万石ですので、この言い方には預かり地の石高が含められているものと考えられます。

 

 なお、宗茂のあとは、忠茂、鑑虎、鑑任(あきたか)、貞俶(さだよし)、貞則(さだのり)、鑑通(あきなお)、鑑寿(あきひさ)、鑑賢(あきかた)、鑑広(あきひろ)、鑑備(あきのぶ)と続き、鑑寛(あきとも)の時に明治維新を迎えます。そして、明治4年(1871)、廃藩置県によって柳河藩は廃されます。ここに柳河藩はその歴史に幕を下ろすわけですが、現在でも旧柳河藩域は共通の文化圏をなしているように見えます。

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