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立花宗茂と吉政

2014年4月2日

 柳川の国造りに大きな働きをした人物と言えば、立花宗茂と田中吉政が挙げられます。

 

立花宗茂肖像

立花宗茂肖像(福厳寺蔵) 

 

立花宗茂は、大友家の部将高橋紹運の子として生まれます。天正9年(1581)、やはり大友家の部将で立花城を守っていた戸次道雪の娘誾千代の婿として立花城に迎えられます。その後、養父道雪とともに、主家大友家のため筑前・筑後を転戦します。天正13年養父道雪が没し、翌年には岩屋城で実父紹運が戦死しますが、このようななかで北上しつつある島津勢に抗しました。この働きが、九州を平定した豊臣秀吉の目に留まり、天正15年筑後三郡を与えられ、柳川を城地と定めます。これによって、宗茂は大友家の部将から、独立した大名となったのです。

 

 柳川に入った宗茂ですが、肥後国人一揆や文禄・慶長の役と、思うように国造りを行う時間的余裕はあまりなかったようです。そんな中でも、領内の検地を行い、柳川城修築にも着手したようです。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦において、宗茂は西軍に与したため、改易となります。ここに、宗茂の国造りは一旦頓挫します。

 

 

田中吉政肖像

 田中吉政肖像(真勝寺蔵)

 

 宗茂が柳川城を開城した翌年、同城に入城したのが、田中吉政です。吉政は、近江国の出身で、宮部継潤の家臣から身を起こし、働きを重ね、ついには豊臣秀次の宿老となります。秀次は、近江八幡それから尾張に所領を与えられますが、秀吉の後継者と目されていたため支配地を離れて在京することが多く、その留守は吉政が実質的に取り仕切っていたようです。文禄4年(1595)、秀次が切腹した時もこれに連座することなく、その後は逆に加増を重ねていきます。最終的には、三河国岡崎城主として10万石の大名となります。

 

 慶長5年の関ヶ原合戦に際には、東軍として主力戦に参加し、合戦後は石田三成を捕縛するという手柄を立てます。こういった戦功により、家康から筑後一国を与えられ、柳川城を本拠地として、領国の経営にあたることになりました。吉政は、柳川城の大規模修築、久留米・柳川往還の整備、慶長本土居と呼ばれる干拓堤防の築堤など基盤整備事業に大きな功績を残しました。吉政は、近世柳川の基礎を築いた人物と言えるでしょう。

 

 吉政は、慶長14年江戸へ向かう途中、伏見で没します。藤吉村にその墓が建てられますが、その上に伽藍を設け、大屋小路にあった真教寺(後の真勝寺)がここへ移ります。吉政の跡を継いだ忠政は、元和6年(1620)跡継ぎのないまま亡くなり、田中家は断絶します。その後、筑後柳川に封ぜられたのは、かつて領主であった立花宗茂です。宗茂は、関ヶ原合戦の後、牢人となりますが、2代将軍徳川秀忠に許され、奥州棚倉の小大名となっていたのでした。一度改易された大名が再び同じ支配地に封ぜられるというのは、非常に珍しいことです。

 

 宗茂は、肥後の加藤清正のもとに預けられていた旧家臣たちを呼び寄せ、領国経営にあたります。再封後の宗茂は、江戸にいることが多かったのですが、検地を行うなど領内統治にも力を尽くし、幕府から課せられた役負担も遂行しました。また、島原の乱では原城攻めにも参陣しています。寛永15年(1638)には隠居を許され、同19年に没し、江戸下谷の広徳寺に葬られました。宗茂の後も代々の立花家当主が柳河藩主となり、明治維新を迎えることとなります。

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