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塩塚城跡

2016年4月5日

 

種別 史跡

所在地 柳川市大和町塩塚北城 

 中世末期の平城(ひらじろ)で、本丸の規模は東西15間(27メートル)、南北14間半(26メートル)でした。天正年間(1573から91)柳川城主蒲池鎮並(かまちしげなみ)の一族塩塚石見守鎮貞(しおつかいわみのかみしげさだ)がこの城を守っていましたが、天正9年(1581)5月、佐嘉(さが)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は鎮並を謀殺し、その余勢を駆って、田尻鑑種(たじりあきたね)とともに鎮並の弟統安(むねやす)が守る柳川城を、さらに鎮貞が守る塩塚城を攻め落としました。そのとき鎮並夫人玉鶴姫(たまづるひめ)をはじめ、子息・侍女ら108人も城と運命をともにしました。蒲池氏と田尻氏は、当時、姻戚(いんせき)関係にあたったので、文字どおり骨肉相食む壮絶な戦であったといわれています。

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