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三柱神社

2016年4月5日

 当社は、文政9年(1826)に御神霊を遷して現在地に設立されました。祭神は、戸次鑑連(道雪)、立花宗茂およびその妻・・藺緝韻任后」

 

 社地は南向き。先ず、慶長4年(1599)銘の銅製擬宝珠のある欄干橋があります。長い南北方向の参道の奥の角地には、手水舎がありますが、文政年間の建設でしょう。本社の中軸線は正しく東西方向を指しています。第一の門としてある3間3戸の楼門は、立ちの高い立面構成を示していますが、旧柳川市における神社建築ではこうした楼門形式の表門は多くありません。

 

 楼門の左右から方形に囲んで廻廊が巡っています。この廻廊には床板が張ってあり、外側の壁は菱格子の透かし板壁ですが、内側の柱間には何もなくて吹放しとして中庭に向かって開放しています。ただし、廻廊の奥の一部の現在囲って部屋となっている部分は、後世の改造でしょう。左右の廻廊では各々一ヶ所ずつ門が開かれており、この扉のある門位置のみ内外ともに軒唐破風の屋根が付きます。

 

 楼門を入った正面に桁行5間、梁行3間の拝殿と呼んでいる入母屋造の大きな床敷きの建物があります。前面の3間の向拝は、屋根が新しく別に付けられているので、古くは無かったのかも知れません。この拝殿は推定復元すると、建具の無い吹放しの床敷き建物となるので、舞殿として計画された、とも思われます。

 

 拝殿のさらに奥に中庭があります。両側の廊下は土間ですが、拝殿背後の中央間と本殿の一画の正面にある中門を結ぶ参道のみ一段高く、切石が全面に敷き詰めてあり、造形状の特色になっています。

 

 この中庭の奥に、高さ約1.8メートル程の高さに切石の石垣を積み上げた、本殿が建つ一画があります。この本殿を囲った石垣の上に透塀が巡っています。正面には、中門が前後に軒唐破風を付けて、不開門として立ち塞がっており、この門の左右には、本殿側に向かって開く板敷きの廊が造られています。

 

 本殿の調査ができませんが、屋根の形で見る限り通常の三間社流造であり、前面に1間の向拝が付いていて「3間1面」の平面形式となっています。ただし、前室の前面の全ての柱4本とも丸柱であり、前室の外壁全てが扉などで囲ってあって完全に閉鎖的な一室を構成しており、さらには向拝が付いています。

 

 棟札などは未見ですが、楼門の鬼板の半分が保存されていて、これに「文政九丙戌年」の墨書を確認できます。

 

 なお、楼門・拝殿・廻廊・中門は平成17年に焼失しました。

 

※この文章は、柳川市史別編『新柳川明証図会』、柳川文化資料集成第4集『柳川の社寺建築1』の山本輝雄氏(前編集委員)、松岡高弘氏(編集委員)、内山一幸氏(調査研究員)の執筆部分を編集したものです。

 

 

 

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