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川下り

2022年12月1日

 「柳川と言えば、何を連想しますか?」という問いに対し、まず挙がるのが「川下り」という答えのようです。

 旧柳川城の城濠をたどっていく「川下り」は、今では四季を通じて水郷柳川を代表する観光として親しまれていますが、このような「川下り」が始まったのはそんなに古い話ではありません。

 もちろん、船を使って掘割を行き来することは古くからあったようです。例えば、江戸時代の法令には、「お囲いの土居」内(「お囲いの土居」とは柳川城の外堀を意味します)に「水門・船小屋などを新しく作ることはすべて禁止する」と書かれています。禁止される程に「船小屋」があったのでしょうか。また藩主が「御花畠」(今の「御花」)に渡る時は船を使ったとも言われています。これらから、恐らく城堀内の船の通行は出来たのでしょう。しかし、この時代の城堀は城の防御の要であり、誰でもが自由に船で往来出来たのではなく、許可された人だけであったと考えられます。

 明治以降は、さかんに「川遊び」が行われていたようです。川での漁はもちろん、「どんこ船」をたくみに操って川で遊んでいました。また堀に面した家々では小舟を所有し、移動の際に利用しており、舟は柳川の生活に欠かせない道具でもあったのです。

 たとえば、柳川出身の詩聖北原白秋が帰柳した折りに「川遊び」を楽しんだ様子を写した写真が残っていますし、柳川で発刊されていた地方新聞「柳河新報」の昭和29年8月22日号には、郷土の文化人の団体「筑後文化懇話会」が、白秋を語るとして、「月の出」を待ってドンコ船にのり、御花から三柱神社の欄干橋までを楽しんだとの記事が載っています。また、同年のドンコ船競争には多くの見物客があったようです。このように、川に舟を出して遊ぶ「川遊び」は盛んに行われていました。このように生活の道具としての船の利用や「川遊び」はもこの地方では古くから行われていました。しかし、観光としての「川下り」の定着はもう少し先のことです。

 昭和29年、白秋の少年時代を描いた、長谷健原作の『からたちの花』が映画化されることとなります。柳川でのロケは、市民に熱狂的に歓迎され、子役に柳川の子供たちがあてられます。しかし、この映画が公開されると意外な効果が現れます。映画の中の「川遊び」が俄然注目されることとなったのです。

 この頃の「柳河新報」をめくっていくと、柳川市がドンコ船2艘を作り、その一つには船の頭に河童の顔がついているとの記事が出てきます。また、昭和30年3月に柳川商工会議所が「四月から水郷柳川の観光美を外来客に満喫させるため、川下り観光ルートを国道橋から沖端迄設定、専用遊覧船五艘を柳川造船所に発注した」との記事も見えており、これが現在の「川下り」のスタートとなるものです。

 この「川下り」のルートは、江戸時代の柳川城の堀割をそのまま辿っていくものです。これが柳川の「川下り」の魅力なのです。途中、数々の「もたせ」になった橋が架かっており、その下をくぐっていくこととなります。

 三柱神社付近を出発する場合は、鋤崎土居を通り、瀬高水門から内堀に入ります。その後、並倉や日吉神社横を通り、御花、沖端へとつづいていきます(内堀コース)。また、外堀にある、江戸時代の城濠の土居の景観をそのまま残す米多比隅を通るルートもあります(外堀コース)。沖端方面から逆方向へも乗船できたり、短縮コースもあるなど、時間にあわせて川下りができます。

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