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掘割、城堀の水落ち

2022年1月14日

 

城堀の「水落ち」について

城堀の画像

 

「水落ち」

 柳川地方では、無数の掘割が張り巡らされています。この掘割は一般的な河川とは異なり、水流が極めて穏やかです。そのため掘割の中には水藻が群がり生え、底には、ちりやごみが滞留していきます。その水を生活用水として利用してきたころは、掘割の環境整備は欠かせませんでした。そのため河川から掘割に流れ込む水を一時的に堰き止めて貯水を流し去り、一時的に空になった掘割を毎年のように清掃する必要があります。これを一般に堀干しと呼んでいます。時期は地域によって微妙に異なりますし、渇水あるいは流行病などの事情により、年によっても変動がありますが、通常は稲の刈り入れが終った10月から11月にかけて行われていました。

 

 堀干しの本来の目的は、水藻の除去と滞留物の浚渫(しゅんせつ※1)にありますが、農村の人々にとってはさらに重要な意味を有していました。堀に滞留していた泥、「ガタ」は養分を多分に含む肥料となるからです。そのため、ガタを乾燥させ、「くれ割」という道具で小さく砕いて田畑に撒いていました。

 

 水落としというのは、この堀干しの中でも旧城下町で行われることを指します。一般に柳川の旧城下町を囲む掘割を城濠と呼びます。ここに城濠水門を経て矢部川水系の二ツ川の水が流れ込みます。そこで水落としの時、城濠水門を閉じ、沖端に設けられている二挺井樋を開放し、城濠の貯水を有明海に流します。明治の末期頃までは通常11月上旬、城内にある日吉神社の秋季の祭礼の前というのが慣例でした。と言うのも水落としの期間中に捕獲した魚を料理し、親戚・知人を招いて神社で酒宴を楽しむといった風習があったためです。

 

 水落としを行うにあたってこの酒宴も楽しみであったと思われますが、何といっても魚の捕獲、これが柳川の人々の最大の関心事だったようです。大正期の新聞には水落としの本来の目的である河川の浚渫をそっちのけで漁を楽しむ姿を嘆息する記事が掲載されるほど、柳川の人々は総出でこの時期の漁を楽しんでいました。投網のような一般的な物から、蜘蛛手・掛かり網・押たぶ・ナガジョウゲ(竹で編んだ籠)など、この地方独特の道具を用いて、思い思いの場所で夜通し漁を満喫していました。特に御花畠の側の堀は絶好のポイントだったそうです。鯉、鮒、なまず、うなぎ、川エビ、スッポン、このような淡水魚などが主な獲物でした。そして捕まえた魚は各自が家に持ち帰り、竹串に刺して炭火で焼き、燻製にして冬用の保存食として天井などに吊るして貯えられていました。

 

 このように水落としは、日常の飲料水・生活用水の質の管理や農業用の肥料の確保だけではなく、年に一度の大掛かりな娯楽、さらには柳川の味覚を育むという意味で、重要な行事でした。今でも護岸工事や橋梁の修復など土木工事の作業用の足場を組むためにはどうしても必要な作業です。そのため、観光業界や海苔の養殖業者との意見を調整しながら、水落としは2月中旬ごろから10日間ほど行われています。昔とは異なり今日では水落としは冬の風物詩の一つとして数えられています。また、期間中に町内単位で一斉に城濠の清掃も行われています。そして、装いを新たにした城濠内で「川開き」が催されることで、柳川地方は春の訪れを迎えます。

 

 内山一幸[水落とし]『新柳川明証図会』柳川市から一部修正のうえ引用

(「水落ち」は「水落とし」「堀干し」ともいいます)

 ※1浚渫(しゅんせつ)水底の土砂などをさらうこと。

 

 

 
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