歴史
柳川地方に人が住み始めたのは、およそ2千年前と推定されています。そのころから人々は、有明海の湿地の溝を掘り、その土を盛り上げて開拓し、灌漑と排水を担うクリーク網を形成していきました。市内外に残る条里の遺構や地名はその営みの古さを物語っており、この縦横に走るクリークは柳川地方の景観の特徴です。慶長6年(1601年)から田中吉政が、元和6年(1620年)から立花宗茂がこの地を治め、治水・干拓事業により2000町に及ぶ干拓地の造成など、今日に伝えられている地域の社会的、物的環境の基礎が整えられました。
明治4年(1871年)の廃藩置県により旧柳川藩は柳河県となり、明治22年(1889年)の明治の大合併で、現在の柳川市域は山門郡内に柳河町、城内村、沖端村、西宮永村、東宮永村、両開村、塩塚村、鷹尾村、有明村、川北村、川辺村、垂見村、宮の内村の1町12村が、三潴郡内に浜武村、久間田村、蒲池村の3村が誕生しました。明治40年(1907年)に塩塚村、鷹尾村、有明村が合併して大和村に、川北村、川辺村、垂見村、宮の内村が合併して三橋村が誕生。昭和12年(1937年)1月には浜武村、久間田村が合併して昭代村が誕生します。昭和26年(1951年)4月の昭和の大合併で、柳河町と城内村、沖端村、東宮永村、西宮永村、両開村の1町5村が合併して柳川町となり、翌年4月に市制を施行。また、同年6月には三橋村が、9月には大和村が町制を施行しました。さらに昭和30年(1955年)1月、柳川市が三潴郡の昭代村、蒲池村を編入合併しています。平成17年3月21日に柳川市、大和町、三橋町の1市2町が合併し、現在に至っています。
合併の経過