柳川城をめぐる

更新日 2014年04月02日
 柳川城は戦国時代蒲池氏によって築かれたとされていますが、その時期と築城者については、文亀年間(1501~1504)に蒲池治久によるとする説や、天文年間(1532~1555)に蒲池鑑盛によるとする説など、はっきりとしません。いずれにしても、蒲池氏が柳川城を築城し、それまで拠っていた蒲池城から本拠地を移したようです。

 

 戦国時代には、何度か攻められましたが、それにも耐えた名城でした。天正9年(1581)、蒲池鎮並が龍造寺氏によって誘殺されると、龍造寺氏の持ち城になっています。

 

 天正15年(1587)下筑後三郡に領知を得た宗茂は、文禄5年(1596)頃に柳川城の改修に着手し、出兵先の朝鮮からも天守・広間・書院・矢倉などについて指示を送ったようです。しかし、この改修がどの程度進んだのかなどについて示す史料は見出されていません。ともあれ、慶長5年(1600)の改易によって、宗茂の手による柳川城改修は一旦頓挫します。

 

 その後、筑後一国を宛行われた田中吉政は、入部間もない頃から柳川城の大規模修築に取りかかります。吉政は国元の三奉行に宛てて、城門の造営や天守台の建造、石垣の敷木調達など細かな指示を出しています。まさに吉政主導の修築と言ってよいでしょう。五層の天守や城郭の整備など、近世柳川城の大枠は吉政の時代に完成したものと考えられます。

 

 この柳川城の様子を知ることができるのが、寛政3年(1791)の「御城御絵図」です。この絵図は、柳川城本丸・二の丸の部分を中心に描いたものです。

 

 三の丸には重臣たちの屋敷や御厩があり、二の丸へ通称欄干橋が架橋されていました。二の丸内部には番所や木屋があるほかはあまり建物も描かれていません。二の丸にはもともと藩主家一族の屋敷があったようですが、藩主家一族が御花畠が移ってからは新たな造作はなかったようです。本丸に目を転じると、藩主や藩士たちが政治を行った本丸御殿の間取図が描かれています。さらにその本丸の南西隅に五層の天守が描かれています。本丸・二の丸を取り囲む堀も非常に広かったようで、西側の堀幅は45間6尺(約82メートル)もあったことがわかります。

 

 明治5年、突然の火災によって天守を含め本丸・二の丸は焼失してしまいます。その後、城趾は陸軍省のち大蔵省の管理となり、明治8年には競売入札の結果私有地となります。大正6年城趾は山門郡によって買い戻され、その後同11年に城内村の所有となります。

 

 明治末から大正期にかけてのこの時期、「柳河新報」紙上では城趾を保存するか開発するかについて熱い議論が交わされることになります。「柳河新報」には、城趾の保存・活用立場から北原白秋も寄稿しています。

 

 その後、昭和3年に御大典記念事業として城趾・城濠の一部を公園として保存、残りを水田に開墾することが決定されました。公園は柳城公園と命名され、通称「へそくり山」が造成され、翌年には公会堂も完成しました。

 

現在、本丸・二の丸付近は市立柳城中学校・柳川高校の敷地となっていますが、天守跡の高台が市指定史跡となっています。

 

 

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