城下町柳川

更新日 2014年04月02日

 城下町柳川の始まりは、戦国時代に蒲池氏が柳川城を築いた時にもとめられます。この時に、ある程度の城下町が形成されたと考えられますが、史料が残っていないため、その規模や様相などについて知ることはできません。

 

 しかし、城下町の本格的な形成は、天正15年(1587)立花宗茂が柳川城を城地に定めて以降のことと考えられます。宗茂が慶長5年(1600)に改易され、翌年に田中吉政が柳川城に入城すると、程なくして柳川城の大規模修築に取りかかっており、これにあわせて城下町が整備されたと考えられます。この時に、柳川の基本的な町割りが出来上がったものと思われます。

 

 田中氏の統治が2代で終わると、元和7年(1621)再び宗茂が柳川城に入城します。宗茂は、再封ののち、それまで瀬高町通り東方にあった瀬高門を南方へ移し、細工町・新町を町立てしたと言われています。

 

 このようにして出来た城下町は、武士たちが住んだ「御家中」、その東北に展開し主に町人が住んだ「柳河町」、そして「御家中」の西に位置し町人たちが住んだ「沖端町」の3つの区画に大きく分かれます。

 

御家中

 「御家中」は、柳川城本丸・二の丸を中心として、内堀を挟んで重臣たちの屋敷があった三の丸が展開し、さらに外堀に囲まれた部分に武家屋敷群が存在していました。柳川城に近いこともあって、要所には門が配置され、通行人は厳重なチェックを受けました。各単位は「本小路」「奥州小路」など「小路」と呼ばれていました。江戸時代後期には、堀を挟んで西側に接する鬼童小路もこの「御家中」に組み入れられたようです。

 

御家中

御家中絵図

 

柳河町

 「柳河町」は、基本的には町人町で、「瀬高町」「細工町」など各単位は「町」と呼ばれました。

しかし、町人以外にも、武士や足軽・扶持人たちが住んでおり、そういったところは「鷹匠小路」「長柄小路」など「小路」という名称が付けられていました。江戸時代のメインストリートは、出橋門から瀬高門を結ぶ、上町-中町-本町辻(辻町)-瀬高町-細工町-新町というコースでした。カギ型に曲がっているのは、防衛面を考慮してのことでしょう。

 

町小路

町小路絵図

 

 この中の瀬高町では、毎年7月14日に帷子市が行われ、「柳河明証図会」の挿絵からは賑わっていた様子がうかがい知れます。また、町の西部、鍛冶屋町・西魚屋町には寺院が集中していて、さながら寺町を形成しており、現在でもその名残があります。

 

柳河明証図会

「柳河明証図会」より帷子市

 

沖端町

 「沖端町」は、堀と沖端川の引き込みを挟んで、大きく北町と南町に分かれ、「沖端両町」とも称されます。沖端は柳河藩の重要な港の一つであり、領外との取引や漁業基地として使用されました。また、藩の「御船木屋」もありました。堀沿いの通りが町の中心でしたが、時代を下るにつれ、隣接する農村部にも町域を拡大していったようです。

 

沖端町御絵図

沖端町御絵図

 

 武士を除いた城下町の人口は、宝暦2年(1752)に4,584人、文化14年(1817)に4,927人、元治元年(1864)に5,515人と、徐々にその数を増やしていきました。

 

 

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