柳川の遺跡

更新日 2016年04月05日

1 はじめに

 柳川市の土地に人々が暮らし始めたのはいつ頃でしょうか。最終氷期が終わり約10,000年前頃から地球の温暖化とともに海水面が上昇しましたが、縄文時代中期の約6,000年前をピークに冷涼化したため、海水面が後退し始めました。遺跡の分布を時代毎に見ると、柳川市周辺の有明海沿岸部は弥生時代以降に陸地化が進んだようです。これまでに実施された発掘調査の成果から、弥生時代前期末から中期初頭(約2,200年前)頃には集落が形成され始めたと考えられます。

 

2 先史時代の遺跡

 海岸線の後退により次第に陸地化が進んだ有明海沿岸部のうち、特に柳川市周辺地域では、近年の発掘調査により弥生時代中期前半以降の遺跡が確認されています。

 

 徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)は、弥生時代前期から中期初頭(約2,200年前)の集落です。調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まないように工夫された掘立柱建物や井戸が検出されました。また、磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)では弥生時代中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。約3,500m2の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出されていますが、集落は更に広範囲に広がっているようです。蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、弥生時代後期(約1,800年前)の集落が調査されました。先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかっています。

 

 これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として三島神社貝塚(柳川市西蒲池)や島貝塚(柳川市大和町鷹ノ尾)が知られるほか、扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性があります。

 

3 古代の遺跡

 圃場整備の際に、垂見遺跡(柳川市三橋町垂見)を始め周辺の遺跡から古墳時代の須恵器などの遺物が出土しています。また、柳川市立蒲地小学校に収蔵されている資料には弥生時代から古墳時代へと移り変わる時期の遺物が見られるほか、柳川市西蒲池周辺の遺跡から古代の遺物が表面採取されていますが、古代の遺跡は現在まで調査例がありません。古代の柳川市の様子を明らかにするためにも今後の発掘調査が期待されます。

 

4 中世の遺跡

 古代と同じく、史料に乏しい中世の柳川市の姿もよく分かっていませんが、荘園体制から武家支配へと移り変わり、戦国時代の柳川市周辺は、蒲池城(柳川市西蒲池付近)を本拠地とする蒲地氏と、鷹尾城(柳川市大和町鷹ノ尾)を本拠地とする田尻氏が統治していました。

 

 柳川市北西部に広がる条里遺跡(柳川市間、田脇、西浜武)には水路と畦が整然と並ぶ土地区画が残されており、古代又は中世の条里制の遺構ではないかと考えられています。

また、東蒲池大内曲り遺跡(柳川市東蒲池)では、コの字型をした大型の掘立柱建物などが調査されています。遺跡からは、日常使用された土師質の土器や瓦器の他に、貿易により大陸から伝わった陶磁器も出土しています。蒲地氏の菩提寺であった崇久寺の南東約200メートルに位置し、概要が明らかにされていない蒲地城周辺の状況を示す重要な遺跡です。蒲船津西ノ内遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、中世集落辺縁部の水路や井戸などが調査されています。日常使用された土器の他に貿易陶磁器が出土しています。

 

 市西部の矢部川下流に面した中島城跡(柳川市大和町中島)は、戦国末期に鷹尾城の防衛のために当時の矢部川河口に築かれた出城と考えられていますが、これまでの調査では近代以降に埋め立てられた城堀の一部が確認されました。

 

5 近世の遺跡

 近世柳川城とその城下町は、柳川城郭という遺跡に含まれています。現在の城内地区と柳河地区全域、それに沖端地区の一部で構成される遺跡です。特に、柳川城郭の中心部に位置する柳川城本丸跡は柳川市の史跡に指定されています。古図で確認すると、柳川城天守閣と本丸及び二の丸から成る内城は幅約40メートルの堀に囲まれていました。しかし、昭和3年(1928)から昭和5年(1930)にかけて城跡が開田された際に堀の大部分が埋め立てられました。この堀を含む内城は現在の柳川市立柳城中学校と柳川高校に当たります。

 

これまでに発掘調査が行われた遺跡を紹介します。

 

 本町袋町遺跡は柳川城の城内西部、本町と袋町に所在する武家地の遺跡です。調査では近世から近代までの大きく3層にわたり、建物や水路、ゴミ捨て場などが見つかりました。ゴミ捨て場や水路からは日用品の陶磁器や木製品などが出土しています。

 

 また、足軽屋敷の遺跡として南長柄町遺跡が、町人町の遺跡として細工町遺跡と新町遺跡が調査されています。城内地区と同じく、基本的に近世から近代までの大きく3層にわたり建物や井戸、ゴミ捨て場などが見つかっています。武家地よりも建物などの遺構が密集しており、陶磁器や木製品などの遺物の量も多く、賑わいを見せた当時の町人町の生活がうかがえます。

 

 さらに、田中吉政の時代に柳川城と久留米城とを結ぶ幹線道路として整備された久留米柳川往還(現在の県道23号線)に関連する遺跡も調査されています。市北部、柳川藩と久留米藩との藩境に位置する矢加部町屋敷遺跡(柳川市矢加部)では、久留米柳川往還に面した町屋様の集落が近世から現代まで変遷する状況が明らかにされました。

 

6 近現代の遺跡

 市南部に残る近現代の新旧の干拓堤防は、建設当時の土木技術や、建設から現在までの利用形態の変遷などを現在に伝える重要な遺跡といえます。六十丁開の六十丁堤防(柳川市大浜町)は、天明年間(1781~1788)に築造されましたが、明治7年(1874)に台風により決壊した後は柳川城の石垣の石を用いて、より強固に修復されたといわれています。明治31年(1898)の明治開(柳川市大浜町)などから昭和45年(1970)完成の国営大和干拓(柳川市大和町大坪)まで、各時代の干拓技術を現在に伝えています。

 

 また、近代以降に造られた水利施設や旧佐賀線関連の土木遺産など、柳川市の近代化を伝える遺跡が市内に点在していますが、近年急速に失われつつあります。

 

7 おわりに

 柳川市は市域の半分ほどが干拓地であることから、これまで余り遺跡が無い土地だといわれてきました。しかし、近代以降の郷土史家による粘り強い現地調査や、これまでに行われた発掘調査により、有明海に面した柳川市周辺が陸地化し始めた弥生時代前期末頃から2,000年以上にわたり多様な遺跡が存在することが分かってきました。

遺跡は文字どおり先人達の生活の痕跡であり、文字史料がない時代の歴史を現在に伝え、文字で記録されない人々の生活史を知るための大切な手がかりです。

 発掘調査の成果は発掘調査報告書や歴史民俗資料館や柳川古文書館などで公開していきます。そして、調査成果に基づく今後の考古学的研究により、柳川市の歴史を少しずつ明らかにしていきます。

 

このページの作成担当・お問い合わせ先

生涯学習課文化財保護係 電話 0944-77-8832

お問い合わせフォーム

アクセシビリティ | 個人情報の取り扱いについて | 免責事項 | このサイトについて | リンク集 | ご意見・お問合せ | サイトマップ | 携帯サイト

ページの先頭へ

柳川市役所
柳川庁舎 〒832-8601 福岡県柳川市本町87番地1
 TEL:0944-73-8111 FAX:0944-74-1374
大和庁舎 〒839-0293 福岡県柳川市大和町鷹ノ尾120番地
 TEL:0944-76-1111FAX:0944-76-1170
三橋庁舎 〒832-8555 福岡県柳川市三橋町正行431番地
 TEL:0944-72-7111 FAX:0944-73-8405
柳川市法人番号 6000020402079

開庁時間 8時30分~17時(土日、祝日、12月29日~翌年1月3日を除く)
柳川庁舎の一部窓口業務を、第2木曜日は19時まで延長し、第4日曜日は8時30分から正午まで開庁します

窓口延長・開庁時の主な取り扱い業務
※開庁時間の各庁舎の代表電話は、柳川庁舎電話交換手が取り次ぎます
各課への直通番号 市役所への行き方
各ページの内容に関するお問合せは、ページごとに記載している問合せ先までご連絡ください。

Copyright © 2014 Yanagawa City All Rights Reserved.