江戸時代の干拓事業

更新日 2014年04月02日

 有明海の干満差を利用して、当地方ではすでに13世紀には干拓が行われていたと考えられています。とくに江戸時代に入ると、政治体制また社会が安定したことから、大規模な干拓が行われるようになります。

 

 関ヶ原合戦後、筑後一国を与えられて柳川城に入城した田中吉政は、慶長7年(1602)に柳川市大和町鷹尾から大川市酒見に及ぶ堤防の補強を命じています。こうして出来たと考えられているのが、総延長32キロメートルに及ぶ「慶長本土居」と呼ばれる干拓堤防です。具体的なことはわかりませんが、この「本土居」築堤によってその内側の土地の耕地化がなされたと考えられます。

 この「慶長本土居」を起点として、その後の干拓は行われることになります。

 

 田中氏2代の後を受けた立花柳河藩でも、引き続き積極的な干拓事業が行われます。塩塚川と矢部川に挟まれた部分の干拓地を描く「皿垣開絵図」によって、江戸時代中後期までの干拓の様子を見てみましょう。

 

 この絵図には朱線で表された「慶長本土居」から西側に黄色の線で囲まれた魚鱗状の区画が描かれていますが、これが一つひとつの干拓地(開地)です。その干拓地ごとには名称が書き込まれています。古川開や江湖開など干拓以前の土地の有様がわかる名称もありますが、それ以外の多くは開発者の名前が付けられています。

 その名前はほとんどが藩士のものですが、なかには商人や浪人の名前も見られます。このことから、江戸時代中後期くらいまでの干拓は、藩士たちを中心として様々な主体で行われ、比較的小規模であったことがわかります。

 

 江戸後期になると、皿垣新開の東側や黒崎新開、横須・手鎌新開など藩領の南部で、藩あるいは藩主による大規模な干拓事業が行われます。こうして、柳河藩では明治初年までに2,540町の干拓を達成しています。

 

 現在でも上空から見ると、干拓地が魚鱗状に広がっていることがわかります。この風景こそ「土地に刻まれた歴史」そのものといえるでしょう。

 

 

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